戦時下の特殊放送事情(日本)
(歴史的情報は常時確認中。)




防圧ジャミング放送 ●大東亜戦争末期、連合軍は日本に向けていくつかの宣伝放送を行ったが、そのなかで最も  影響力が強かったのは、米軍に占領されたサイパン島からの中波によるものであった。 ●これに対して日本放送協会は各中央放送局および太平洋沿岸の主要放送局、臨時放送所を  動員して雑音放送(ジャミング)を実施した。 ●この放送は「防圧放送」と呼ばれ、最大33カ所から発信された。  この放送は1944.12.26から1945.8.29まで実施されたが、一部設備が戦災局の予備施設に  転用されたりと変動も多く、電力供給の不安定もあってか、一部の太平洋沿岸では効果が薄  かったという証言もある。しかし、当時の受信機の性能を考えれば、雑音放送の混信混じり  の放送を聞き取るのは容易ならざるものがあるはずであり、一部の高級受信機を除けば効果  は十分にあったと考えられる。
雑音放送施設の概要(日本放送協会編「放送50年史」より引用)
札幌中央放送局10キロワット
仙台中央放送局3キロワット
東京中央放送局(川口送信所)10キロワット
名古屋中央放送局(鳴海送信所)10キロワット
大阪中央放送局(千里送信所)10キロワット
広島中央放送局3キロワット
熊本中央放送局1キロワット
宮崎500ワット
鹿児島50ワット
室蘭50ワット
新潟500ワット
浜松50ワット
新宮50ワット
日置1キロワット
高知500ワット
福岡500ワット
延岡50ワット
志布志50ワット

戦時下の同一周波数放送

●1941年12月8日に日本政府は連合国に宣戦布告。その日から電波管制が施行された。

●電波管制は燈火管制と同様、敵機の来襲に備えて、夜間、都市の位置を不明瞭にする事を
 目的とした。当時、夜間や荒天時の空襲の際、陸上の燈火や放送電波が飛行目標や爆撃目
 標に用いられたため、世界各国で、燈火の縮小や街灯の廃止、そして夜間放送出力の減力
 や同一周波数放送の実施などがおこなわれた。

●まず、第一段階は第2放送の休止であった。これは8日午後に即実施された。

●そして、第二段階は1941年12月9日に実施されたが、この日は

     1)全国の放送周波数を860キロサイクルに統一する
     2)全国各局の送信出力を夜間500ワット以下に抑え、突出のないようにする
     3)東京・札幌・熊本・松江など電波分布上目立つ局の出力を抑える
     4)そのため受信が困難になる地域に臨時放送所を開設
      (第一段階は前橋、水戸、長府、折尾[福岡県八幡市]、行橋)

 という内容であった。

●しかし、この計画ではいくつかの問題があったとみえ、1941年12月25日には早くも
 実施内容の改正が行われた。全国の統一放送周波数が1,000キロサイクルに変更され、
 また 電波到達の確実化を図るため東京中央、大阪中央の2局の夜間出力が2キロワット
 に増力された。なお、この時JODKを筆頭とする朝鮮放送協会の各局も管制下に置かれた。

●証言によれば、各局の統一周波数への調整は各局が水晶発振器などを使って放送終了後に
 時間をかけてじっくりと行われたようであるが、当時の送信機の安定度などを考えると、
 その精度は決して高いものとは考えにくく、放送時間が長引くにつれて若干のドリフトが
 生じたに違いない。また、樺太から 鹿児島まで(開戦当時沖縄放送局は未開局)の同期
 放送には、その距離から相当に無理があったとみられ、当時を知る人の証言によると、夜
 間全局を同一周波数で放送した時の微妙なビートの積み重ねは大変に不快なノイズを生じ
 させたとのことである。当時、これに対するものであろうか「料金不納同盟」という団体
 が受信状態の改善を求めてきたが、全国的な波及や、思想的運動への発展をおそれた協会
 (日本放送協会)は聴取不良地域に対する指導員の派遣や、集金員による解説書の配布な
 どを検討した。

●12.25から、夜間は軍管区を基準とした群ごとの同一周波数放送に変更された。これは各
 軍管区からの情報を混乱なく放送するためという目的もあったに違いない。この段階にお
 いては、中央放送局の出力減少にともない、中継放送局が少なかった中央放送局周辺の諸
 都市に新たに中継放送局を設けたり、電灯線や電話線による有線放送を行うなどの方法が
 検討された。

第一群・北部軍管区北海道・樺太750キロサイクル
第二群・東部軍管区東北700キロサイクル
第三群・東部軍管区関東・甲信越800キロサイクル
第四群・中部軍管区東海・近畿・四国東部900キロサイクル
第五群・西部軍管区中国・四国西部・九州1,000キロサイクル
●受信障害を抜本的に解決しようと、翌年1.23には全国の中央放送局の夜間出力を一律2キロワ
 ットに引き上げ、同時に管制の緩和に関する提案内容を検討しはじめた。提案によると、各局
 の周波数を管制開始以前のものに戻すとともに、

    ・東京-銚子-浜松-金沢-新潟
    ・大阪-新潟-鳥取
    ・仙台-郡山-秋田

 の3つをそれぞれ同一周波数として管制効果を求めるというものであった。また、福岡局の減力
 を補うため小倉に500ワットの放送局を設け、隣接する折尾、行橋とは別の同一周波数網に参加
 させるという方法も検討された。

●2キロワット、5キロワット、10キロワットの3パターンの試験結果を海軍が検討し、平時10キロ
 ワットの放送局を夜間電力を「甲種管制時」に5キロワットとする旨決定され、それを受けて2月
 から全中央局は一律5キロワットに増力された。また、のちに第四群の周波数が875キロサイクル
 に変更された。

●この後しばらくこの体制は続いたが、全国に臨時放送所が開設されたり、また各局の送信アンテナ
 が逆L型に改造されて指向性をもたさたりと、細かい部分で管制の徹底化がはかられていった。

●しかし、1944年3月に(戦局の悪化にともない)再び全国同一周波数放送が実施されたが、
 その10月には群別同一周波数放送に戻された。この頃から放送は極度に断続的になり、昼間
 はほとんどが休止時間となった。しかし軍管区情報などは臨時放送の形式でおこなわれるため
 多くの家庭で、黙ったままの受信機のスイッチをいれっぱなしにしていたようである。

第一群・北部軍管区北海道750キロサイクル
第二群・東部軍管区東北・関東・甲信越・北陸800キロサイクル
第三群・中部軍管区東海・近畿・四国875キロサイクル
第四群・西部軍管区中国・九州1,000キロサイクル
●このあと1945.2.11には陸軍軍管区の改正にあわせて6群制がとられ、さらに8月には8群化と
 警報発信局の独立周波数移行が行われ、9.1に電波管制が解除されるまでこの形態は続けられた。



臨時放送所、有線放送施設
●臨時放送所は電波管制による受信障害や感度低下などを補完するために出力50ワット程度で  開局されたものであるが、地域の特性によっては有線放送も実施された。この有線放送には  電話線利用(東京、大阪、神戸、名古屋、福岡)、電灯線利用(呉、津山、室蘭、佐世保、  延岡、大泊、真岡)、電話線電灯線併用(小倉)などのタイプがあった。
戦時放送施設
●戦争にともない、各中央放送局は予備演奏所や予備送信所などを設けた。
局名隠蔽放送所予備放送所(送信所)予備演奏所(スタジオ)
東京中央放送局新郷本郷(未完成)愛宕山
小室
第一相互
国防電話局
会館地下
相原中継所
足柄(未完成)
大阪中央放送局-四条畷
藤井寺
日本生命館
上本町
会館地下
名古屋中央放送局-鳴海
山本球場
徴兵館
広島中央放送局-造船学校-
熊本中央放送局-清水高等女学校-
仙台中央放送局-二高-
札幌中央放送局-北広島-


以上、川崎隆章氏制作「番町放送資料館〜放送局・放送会社ディレクトリ〜」より

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